希望を捨てず

「わたしたちは、・・・希望によって救われているのです。 見えるものに対する希望は希望ではありません。 現に見ているものを誰がなお望むでしょう。 わたしたちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
(ローマ8:24,25)

 真冬の寒さの中にありますが、ふと戸外においていたイチゴの鉢植えに目をやると、 思いがけなくも可憐な花が咲いているのに気付きました。 霜にやられて枯れてしまう前に、家の中に入れました。するとたちまちのように花が実を結び、 それは、それは見事な、おおぶりで、あまい真っ赤なイチゴが実りました。 このイチゴ、次から次に実って行くようです。 すでにすっかり赤くなったものもあれば、直径5ミリあるかないかのまだかたく青い実もいくつかあります。 スーパーで買ってきたパックに収まっているイチゴとは違って、一個食べるのも感激があります。 この時節は1年でもっとも寒く、一見、人の目には冬枯れの時としか映りませんが、 目を凝らすと自然は春への準備にスタンバイしています。 教会の暦でいえばいまは復活祭に向かっていく季節です。

 いっぽうで冬枯れのような光景が、現代社会のすがたとして広がっています。 <CHANGE>を声高に叫んだオバマ大統領の支持率が急落していると新聞は伝え、 日本においては政権交代を機に政治、経済の大きな改革のうねりをと人々は望んだけれども、 政治風土の根幹は前政権と少しも変わっていなかったと落胆が日本を包んでいます。 以前は当然であったことが、当然ではない社会になってきました。 <学校を卒業したら、食べるに困らない程度の就職は準備されている>ということは今は、 そうではありません。 <身を粉にして働けば、男でも、女でも普通の生活がおくれる>ということも、当然ではなくなってしまった。 希望が持てない社会では、不安と焦燥から怒りやすい、キレやすい人々が少なくないようですし、 町を歩けば数え切れないほどの暗い顔に出会います。

 明日への希望こそ、人間をもっとも人間らしく生かすものでしょう。 ところが聖書は人間の眼前にある希望を、希望と呼ばないのです。 人の目の前に広がっている経済や政治的状況を、そうあらしめている人間の根源的ありかた、 それを実現している神に目を凝らすことを求めます。 そうすることで人間のおかれている現実は変革、逆転することが大いに可能なのです。 「彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」(ローマ4:18) 英訳では In hope he believed against hope .−望みに逆らって、彼は信じた。とあります。

 希望が見出せなくなった状況というものは、ひとつの危機であるに違いありません。 しかしそのときこそほんものの希望を見出して出会う機会なのだと受け止めることもできます。 今までそれが希望だと信じ続けてきたものが、じつは希望と言い得るものではなく、 自分自身の心に勝手に築いてきた<願望・妄想>のたぐいだったかもしれない。 今、希望を失ってしまったとする人々に、あらためて等身大の自分を見つめつつ、 このあるがままの自分を活かし、生き甲斐を与え、他者のために用いようとされる神を見上げるべきなのです。 挫折や痛みがあったとすると、それは人がここにいたるきっかけ、機会として必要だったのです。

 物言わぬ植物にも、はかりしれない力がそそがれています。 まして人間一人ひとりには途方もない神の愛と力がそそがれています。 だから自分には希望がないなどといってほしくないけれど、仮にそうだったとしても、 それはほんものの希望に生かされるきっかけであることを覚えるべきなのです。

(2010年01月24日 週報より)


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