「ヤコブの神・ユダの神」

 クリスチャンといえば、ふつう <真面目で道徳的>というお堅いイメージがつきまといます。 日本では長らくキリスト教は福音の内容は脇に置いたままキリスト教イコール<禁酒・禁煙> なるイメージが社会に定着したきらいがあります。聖書における信仰者の原点はアブラハムです。 神は<アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神>と言われます。 この3人の中で日本的な<真面目で道徳的な>信仰者像から最も遠いのはヤコブです。 ヤコブは兄エソウが狩猟好きで、狩りから帰ったときに空腹であることを狙い、 レンズマメの煮物をもって、長子の特権を譲らせるのです。 さらにヤコブは父イサクが高齢で、眼が不自由であることにつけこんで、 兄エソウになりすまし、父による祝福の特権すら奪い取ります。 これらは財産と共に、宗教的祝福の権利すら兄をも奪うものでした。 無論これらを軽んじたエサウに問題がなかったわけではないでしょう。 しかし計画的、意図的にこれらを強奪したヤコブのやり方には狡猾、陰険であって、 後に神からイスラエルと改名させられ、神が<アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神> と呼ばれるのはヤコブへの神の過剰な肩入れとさえ見えます。

 ヤコブはやがて長じて父親になります。ヤコブ家は破れに満ちた家庭です。 ヤコブは愛する妻ラケルには誠実を貫き、彼女を通してヨセフとベニヤミンという二人の子どもをもうけますが、 ほかに4人の女性から10人の男の子と一人の娘も生まれます。 ヤコブ家は異なる5人の女性から生まれた子ども達が複雑に絡まりあう家庭なのです。 母親が違う子供たちは、互いに仲が悪く、父親が優先的に愛する末のヨセフはねたまれ、 ついにはそれは、ヨセフ殺害までが決定されます。 けれど、ただ殺すより金に換えるほうがよいとして、イシュマエル人のキャラバンに売ろうと画策します。 けれど手はずが整わないうちに、ヨセフはミディアン人の手に渡り、 銀20枚でイシュマエル人の手に渡され、エジプトに奴隷として売られてしまうのです。

 兄弟が兄弟を殺そうとしたり、奴隷商人に売り渡そうとする。その原因は父ヤコブにありました。 ヤコブがヨセフを偏愛したからです。 さらにヨセフの兄の一人ユダは、路傍に立つ娼婦を相手にすることは日常のことであったようです。 これを知っていた息子の嫁タマルは、子どもを残すことなく早世した夫に代わって、 しゅうとから子供を得ようとして、路上の娼婦に身をやつして、しゅうとのユダに近づき子を得るのです。 新約聖書の冒頭マタイ福音書の系図に「ユダはタマルによってペレツとゼラを」(マタイ1:3)はそのことを伝えています。 これが選民の祖先の現実であり、イスラエルと改名された父親の真の姿でした。

 これ以上落ちようもないほどの闇を抱えた家庭の中で、ヤコブが選ばれたのは何故かといえば、 彼は神の祝福がほしかったのです。 兄を騙してでも、奪い取ってでも、天使を打ち負かしてでも、神の祝福がほしかった。 ヤコブが求めたのは究極的に<財産>でも<地位>でもなかったのです。 ヤコブにとってはこれなしには到底生きていくことが出来ないと受け止めたからでしょう。 ヤコブには神の祝福を求める資格など、一切なかった。 神の祝福をいただいて、少しは他者のことを考えるようになったとも思えません。相変わらずエゴです。 でも神は神の祝福を求める人がどういう状態なのか?とか、今後どう変わりうるか?などは、問わないのです。 祝福を求める人には、その祝福を無限に注ぎつくすのです。 ヤコブ家の底知れない道徳的倫理的崩壊は、エジプトに売られたヨセフによってもたらされます。 しかもあれほどの非道な仕打ちと奴隷にまで身を落とした労苦を、 復讐によってではなく、許しによってヨセフはもたらします。 そしてその力は、信仰的動機によるものではあるでしょうが、 父ヤコブと母ラケルに徹底的に愛された幼い頃の幼児体験が基礎にあることをわたしは信じたいのです。

 破れや破綻のない人生などありません。失敗のない子育てもないでしょう。 自己中心的でない人間もいませんし、心の弱さを蔵さない人生もありません。 神の祝福。これさえいただければ、人生に救いは現れるのです。 あのユダが、イエスキリストの祖先になった。神の大きな心。これに極まります。

(2009年11月15日 週報より)


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