変わりつつある由木の雀?

 我が家の愛犬コタローはいちおう朝、晩の散歩が好きです。 家から出るときは意気揚々ですが、用を足すと、たちまち帰りたがります。 歩くこと自体はあまり好きではありません。 散歩を待ち望んでいるのではなく、散歩から帰って、ありつける<えさ>が楽しみなのです。 コタローの散歩で気付いたことがあります。 最近、雀や鳩などの野鳥が以前に較べると随分大胆に近づいてくれるのです。 コタローは短い距離を、それもノソノソとしか歩かない犬ですが、野鳥が近づいてくると、 やはり犬の本能を呼び醒まします。身を低くして、近づこうとするのです。 しかし鳥達は散歩ヒモの長さを知っているようで、そのほんの数メートル先で遊ぶのです。 でもこれはちょっとした革命ではないだろうかと思い始めました。

 日本の小鳥は何しろ臆病だという印象があります。 それはそうです。 「舌切り雀」の民話があったり、今はどうか知りませんが、鳥山の定番のひとつが雀をひろげて炭焼きにするものです。 日本は米つくりが農業の中心で、実った穂を食い荒らす雀は、嫌われた過去があるかもしれない。 ことによると、日本人は、以前は普通に雀を食べていたのかもしれない。 わたしが子供のころ、空気銃で雀を撃つ人を何度も見たこともあります。 だから雀は、日本ではとても警戒心が強い小鳥です。 北イタリアのストレーザ(ヘミングウエイの小説<武器よさらば>の舞台になった美しい湖畔の町)で食事をしていたとき、 屋外のレストランのわれわれのすぐ横に一本の樹があって、数十羽の雀が宿っていたのです。 手を伸ばせば届く近さです。 聖フランチェスコが小鳥に説教をしたといいますが、日本では聖フランチェスコさえ小鳥に説教はできないだろうと思っていたのです。 イタリアだからこその奇蹟。そこには白鳥もいました。 山中湖に白鳥が休んでいるのを見たことがありますが、とても警戒心が強く、 百メートルほどの距離を神経質に保っていたのを覚えています。 ところがストレーザの白鳥というと、大胆にこちらに近づいてきてえさを求めて、われわれの足を突くのです。 白鳥は美しく、上品であってほしいと勝手に思っていましたが、オデットばかりではないようでした。

 由木の雀が警戒心を解いてくれたことは、わたしには驚きの出来事です。 他者に警戒心を持たずにすむ。 交わり、友愛の思いを伝える。顧みてわれわれ人間社会で、ともするとこうした心を行き交わすことが、 少し苦手になっているのだろうかとも思います。 相手を信じる。信じあう心が、息づく社会がのぞましい。 そうした意味あいでも、信仰心が盛んになってほしいとも思うことです。

(2009年06月21日 週報より)


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