今週は信徒執筆です

「いちじくの木」のたとえ

大澤 信之  

 今回も、こども礼拝用の準備で考えたことを書かせていただきたいと思います。今回 の聖書はルカによる福音書21章29節〜33節「いちじくの木」のたとえでした。 神殿の賽銭箱に、貧しいやもめがレプトン銅貨2枚入れるのを見ていたイエス様です が、ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話しているのをお 聞きになり、一連の「終末の徴」に関してお話をされました。その中に、「いちじく の木」のたとえが入っています。

 ここを読んで最初に思い出したのは、昔私が住んでいた家にあった「いちじく」で す。裏の物置小屋の横に植えられていました。私は、「いちじく」があまり好きでは ありませんでしたが、健康に良いからと、食べさせられました。その味を思い出しま したのです。

 イエス様は「いちじく」が好きだったのだろうか?そう言えば、ルカ13章でも、た とえで「実のならないいちじくの木」の話をされている。ルカ6章でもたとえに用い られている。ルカ18章のザアカイもいちじく桑の木に登っている(辞典によると「い ちじく」と「いちじく桑」は異なると書いてありました。後者は材木用途との事で す)。きっと好きだったのかも知れないと想像は膨らみます。甘みの少ない時代で は、重要な甘み源だったのかも知れません。春になると若葉が萌えいでて、見ている とサラダにも使えるのではないかと思ってしまいますが、「いちじく」の葉は出始め が遅くて夏近くにならないと葉が出ないそうです。つまりカレンダーの無かった時代 の人々は、初夏の到来を「いちじく」の葉で見つけたのでしょう。時を告げる徴だっ たわけです。時を知る、兆しを見つけるということは、時のうつろいを知るという事 です。四季はめぐりますが、時は過ぎてゆきます。過ぎ行く時の中で、全てのものは 時と共に過ぎ消えて行きます。イエス様は「わたしの言葉は決して滅びない」と言わ れます。「天地は滅びるが」と前置きして言われます。

 私たちの世界は、いずれ過ぎ去ることを過去の歴史は語ります。この「世界」とは、 色々な意味があるでしょう。「パックス・ロマーナ」のような政治・宗教体制を言う 場合もあるでしょうし、一部の先進国だけが贅沢に物を消費し、多くの国が貧困にあ えぐ経済体制を言う場合もあるでしょう。そして、どの意味の世界であっても、過ぎ 去ることを私たちは知っています。イエス様の言われた「天地は滅びるが、わたしの 言葉は決して滅びない」とは、「過ぎ行くものに注意を払うのではなく、永遠の来世 を信じよう」「今の世界に住むことは苦しいことが多いが、我慢すれば永遠の世界で は楽になれる」という意味の言葉では無いと思うのです。終末の徴について語られた イエスの言葉は、現在をあきらめるよう勧誘する言葉として響いてはきません。

 「過ぎ行くからこそ、いとおしく大切」であるから「滅びることのないイエスの言 葉」は、滅び行く天地に向け、過ぎ去る者である私たちに向け語られたと思うので す。この過ぎ去るものと、共に在ろうとする神の決意がイエスの十字架に示されま す。「神殿が見事な石と奉納物で飾られている」ことよりも、「神殿の賽銭箱に、貧 しいやもめがレプトン銅貨2枚入れる」ことに意味を見ていたイエス様です。「神殿 が見事な石で飾られている」とありますが、石は古来より永遠の象徴として語られる ように思います。ピラミッドが今も残っている事実からも正しいと思います。しかし イエス様は、「貧しいやもめ」の方に注意を注ぐのです。神様に信頼しきった生活を 続けてきた「貧しいやもめ」が精一杯に神様を礼拝できたように、イエス様の言葉 が、現在という「時の瞬間」を生きる私たちに、精一杯に生きる力を与えて下さるの です。

(2009年03月08日 週報より)


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