神がとりなしてくださるので

「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊℃ゥらが、言葉に表わせないう めきをもって執り成してくださるからです。」 ローマ8:26

 わたしたちが神の前に出るとき、祈ります。それぞれが、それぞれの言葉で祈りま す。たくさんの人々が出席する集会で、堂々とした祈りを聞くことがあります。準備 された、立派な祈りに感動させられることがあります。でも祈りは他人を感動させる 道具ではありません。人が真剣に神の前に立たされて祈るのであれば、堂々とした祈 りなどありません。堂々となどしておられないのです。堂々も粛々もなく、心にある がままの願い、嘆願、懺悔が、順序もまとまりもなく申し述べられることでしょう。 主イエスはマタイ、マルコ、ルカ福音書で「子どものように神の国を受け入れる人で なければ、決してそこにはいることはできない。」と、表現はわずかに違いますが、 そういわれました。たしかにわたしたち成人は、祈りにおいても、他人を意識しま す。そこでは、祈りは、神に向けて祈っているつもりで、人にも向けられます。本当 はどっちに向いているのだ?と神に問われながら祈っているのです。子どものように すべてをさらけ出せて、赤ん坊のように正直になき、訴え、喜びを表現できたらどん なに、天国に近づくことでしょう。でもわれわれはすでに赤ん坊でもなく、子どもで もないのです。また自分を忘れて、子どものように素直に求められても、周囲はただ 迷惑するばかりです。

 罪深いわれわれに完璧な祈りなどありません。時には言葉にならない言葉で祈りま す。これを<ぽろぽろ>と称した人がいます。差し迫った問題で祈らされます。神に 求められる資格など何もないのに、求めざるを得ないのです。でも言葉にならないの です。うめくしかないのです。パウロは「霊℃ゥらが、言葉に表わせないうめきを もって執り成してくださる・・」といいました。わたしたちが、言葉にならない痛み 多い祈りをする時に、神様だって言葉にならないうめきで祈られるのです。

 今は困難な時代です。不安や孤独、極度のうつ状態。そして高齢者に近づく<認知> の問題。葛藤や課題ばかりです。祈りなしで過ごせる時代ではありません。無論、 人々の前で祈ることもあります。しかしその祈りは人に向けられる祈りではないので すから <ぽろぽろ>でも<うめき>でもよいのです。人にどう聴こえようと、神に 向ける祈りに心をこめます。聖霊が自らとりなしていてくださいます。

(2009年03月01日 週報より)


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