< この一年 >

 今日、由木教会は礼拝後教会総会を行います。べつに会堂の建て替えとか、解決が 迫られる特定の問題があるわけではありません。それでも教会は総会を行います。こ の時期あちこちで総会が行われます。教会総会と重なるように、同じ時間帯に、町内 会の総会が開かれています。明日は三多摩教区の総会が行われます。先月は教団総会 がありました。趣味の会から、ビジネスの世界まで、ありとあらゆる総会があるのか もしれません。でもやはり、教会総会は少し意味がちがうような気がします。

 総会を迎えたと言う事は、教会の1年が終わったと言う事であり、新たな歩みに向 かって1年が始まると言う事でもあります。私たちの地上の歩みも、一年終わりに近 づいたと言う事です。人は、やがて終わるべき、限りある人生を生きています。過ぎ 去った時、過ぎ去った人生は、二度と取り返すことが出来ません。だから、一方で、 人生は、はかなく、空しいという受け止め方があります。営々と築き上げてきた業 績、人生のすべてを注ぎ込んで勤め上げた会社生活、夫婦で心あわせて築いた家庭生 活。すべてが終わり、過去のものとなります。やがて彼、彼女を憶える者もなくな り、人は忘却のかなたに消えゆく、と考える人がいます。

  しかし人がキリストと出会うとき、孤独で、せつな的な存在である人間は、永遠の 命に与るのです。確かに人は世俗の一度限りの、その場かぎりの業に従います。しか し、そこに、神による永遠性が不思議に臨むのです。人生はあきらめと、失望だけで なくなるのです。神のはかりしれない可能性が、予想もしなかった神の出来事が生起 するのです。キリストの十字架も、パウロの回心も人類の歴史の一こまです。神の世 界がそうして人類史に突入するひと時があるのです。私たちの人生にも神が介入する のです。

 信じがたいことですが、私たちの日常は永遠の世界につなげられて、この世におけ る神の働きの実現に結ばれているのです。私たちは日本人、韓国人、中国人という国 籍を持っていますが、同時に、神の民の一員です。私たちは日常においては、次から 次に押し寄せる雑用に追われつづけます。希望が見えない社会の中で、暗い顔をして 暮らす人々の多いこと、驚くほど無慈悲な犯罪の増加、そしてやはり昨年も3万人以 上の人々が自殺したとも伝えられます。そうした社会に私たちは、神に遣わされてい ると考えるべきでしょう。何の変哲のないこの1年も、神の働きとはけっして無縁で あったのではありません。反省と悔いばかりの歩みでしたが、神がともに歩んでくだ さったことを覚えると、かけがえのない1年であったと回顧することができます。そ してなおいっそう大きな期待をこめて、明日に向かって歩みだすことが出来そうで す。

(2008年04月20日 週報より)


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