受難週を迎えました。ピラトの法廷に立たされる主イエスの姿は痛ましく、待ち構 える拷問と十字架刑はあまりに残酷です。かつて主イエスに批判され、論破され続け たユダヤ権力者にとってこれ以上の快感はありえなかったでしょう。散々に侮蔑しな ぶりものにし、十字架に釘付けにする機会がめぐってきたのですから。主イエスの12 人の弟子たちはクモの子を散らすように逃亡してしまっていました。主イエス逮捕の 直接のきっかけを企てたユダは自殺して果てました。弟子達の中心だった長老役のペ トロは、裁判の行われていた大祭司の庭に入り込むことが精一杯の限界でした。しか し大祭司館の女中に「あんたも仲間の一人でしょう。」と問い詰められて激しく否定し ます。それも三回にわたって否定します。公式な立場のない女中の問いかけと弁明す るには取り返しのつかない、あまりにも明確な否認でした。あまりにも無残な弟子達 の姿とは対照的に、マグダラのマリア、母マリアその他の女性の弟子たちは、最後ま で主イエスの傍らに寄り添い続けます。係わり合いになり、不必要な懲罰の疑いをも たれたくないという男性弟子とはまったく正反対の堂々とした主イエスへのまっすぐ な忠誠がありました。
ところでピラトとイエス。一方はローマの権力を代表する者で、その強大な力の前 に抵抗できる人間はだれも存在できなかった。かたやイエスは死刑囚。最高権力者と 鞭打たれ拷問を受けた死刑囚。これほど明確な力関係はありえないほどのものです。 ところが二人が相向かい合ったとき、ピラトはイエスの視線に射すくめられ、狼狽 し、おののきます。ピラトはイエスの正しさ無罪を知っており、当然イエスを処刑す ることの不正不法を知っています。にもかかわらず、扇動されたユダヤ大衆の数の圧 力に屈し、イエスを死に渡すのです。ピラトはイエスがいかなる犯罪とも無縁であ り、むしろその時代のユダヤにとってイエスがどれ程大切な存在であるかを理解しな がら、ユダヤ権力者に扇動された群衆の圧力に屈していくのです。
較ぶもののない強力な権力者が、最も弱く見えるイエスの前に、法と正義を曲げて おろおろする姿をさらします。そこに権力への保身を図り、その場の力関係で正義を 捻じ曲げようとするいつの時代にも姿を見せる政治的人間が浮かび上がります。他方 イエスの態度は岩のように堂々としています。ユダヤ権力者による偽りに満ちた訴え には一切お答えににはなりません。イエスがただの人であったなら、弟子達の裏切り をどれほど怒り、嘆き、怒ったことでしょう。「十字架につけよ!」と絶叫した群集 は、かつてイエスにより癒され、養われ、憐れみを受けた人々でした。<忘恩の徒> とは彼らのための代名詞かもしれない。でもイエスは弟子達にも、群集にも<裏切り 者!> <忘恩の徒> とも非難しません。イエスは人間存在がそうしたものである ことを知っておられたからです。状況が変わればカメレオンのように態度を変える。 なんら一貫するところのない人生の生きかた、捉えかた。ピラトが正義を曲げ、群集 がイエスの愛を忘れる姿は、まるでわれわれ自身の姿が、そのまま投影されているか のようです。まさにそこで裁かれたのはイエスではなく、ピラトであり、群集であ り、われわれ自身であることが痛いほどほど伝わってくるのです。
(2008年03月16日 週報より)