宇宙を満たす神の愛が

 新聞の社会面に伝えられるニュースには、なぜか心に引っかかるものをおぼえる出 来事があります。先週伝えられた群馬県のある夫婦の事件です。妻は57歳、夫は一歳 年下。妻は美容院を経営し、家をリフォームし、新たに美容室を一新して、改築が完 成したその日に、夫婦が争いになったのです。夫は妻を鉄棒で殴って、リフォームし た家ごと放火して、家は全焼し、妻は火災で死に至ったのです。夫は自分の故郷の三 重県までの300キロを軽自動車で逃げては見たものの、家では警察が待ってい た・・・と言う記事でした。

 愚かすぎるほど、十分すぎるほど愚かです。でもそれが人間の現実なのだと私は思 わざるを得ませんでした。妻を殺害することも、せっかくきれいに改築した家に火を つけることも、軽自動車で故郷に逃げ帰ったことも、何もかも、別のやり方があった ように思います。でも人と人の間で巻き起こる愚かしさは、すこしも珍しくはありま せん。それは他人の問題ではなく、人間だれもが気づかずに心に宿す、狂想のヴァリ エーションに過ぎないのかもしれません。夫も妻も60歳近くなって、子供も独立し て、孫もたぶん出来て、人生の達人のように見られていた夫婦の結婚生活は、時間無 制限の死に至るプロレスのリングと化していたのです。そして事はついに殺人まで立 ち至ってしまったという事なのです。

 人の心と言うもの、年齢と共に強く、たくましくなっていくようなものではない様な 気がしてならないのです。人の心は、他人の前では強がって見せるものの、じつは繊 細で、傷つきやすく、頼りなげのものです。だからこそ、夫婦、親子、友人という存 在は大切です。けれど、人の心がもっとも傷つくのは、そうしたもっとも身近な人間 関係が多いのです。殺したいほど相手を憎む関係とは、関係性の緊密さがあります。 人恋しいにもかかわらず、もっとも大切なその人を大切に出来ない矛盾した人間の、 つまり、われわれのあり方。だからこそ、ひとは神が必要なのです。主イエスが初め て宣教に及んで説教をされたテキストはイザヤ書42章でした。それは主イエスの自己 紹介が述べられます。『彼は・・・「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯 心を消すことなく・・・」』人は「考える葦」であり、同時に「傷ついた葦」です。 「光り輝くことのできる存在」であり、また「消えかけている、ほの暗い灯心」に過 ぎないのです。

 生身で生きる私たちは、内側も外側もじつは様々な問題を抱えているのです。弱さや 問題性を持っていること、即、生きる資格がないとか、ダメ人間ということではあり えないのです。何らかの弱さを持っていることを自覚すること、そうした自分自身で あることを知っていていいのだと思います。見せかけの強がりに生きないことです。 そこに神の介入を仰ぐ思い・心のゆとりが生まれます。他者と共に生きる心も生まれ るはずです。心に嵐をかかえているのは、自分ひとりではないからです。無限の神の 愛のご配慮をいただけるのも、この弱さのおかげです。あなたと共にいてあげようと する神がいてくだされば、人生何とかなっていくはずです。自分ひとりが世界の不幸 を独り占めしているような孤独感の中で、数え切れない人々が人生を破滅に向うので す。じつは逆です。宇宙を満たす神の愛が、あなたに注がれています。あなたがすべ てであるかのように、神はあなたを見つめているのです。だからわれわれは手を取り 合って、前に進めます。

(2007年11月25日 週報より)


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