今週は信徒執筆です

海南島で麦の穂を摘む

 五十嵐 彰           

 ちょうど1年前に、中国の最南端に位置する海南島というところにある用件で行く機 会があった。いろんな意味で、たまげるような様々な経験をした。格好良く言えば、 カルチャーショックというやつである。

 その中のひとつに、様々な交通事情がある。まず普通の人々の移動手段として一般的 な自動車というものが滅多にない。主要なものは、小型のオート三輪のようなものと オートバイである。このオート三輪のような乗り物は、焼玉エンジンとも呼ぶべき発 動機を搭載しているのだが、これが半端な代物ではない。エンジンを始動させるのに は、座席の下に取っ手のついた鉄の棒を突っ込んでグルグルまわさなければならな い。エンジンがかかるとホッとする。そして凄まじい騒音と振動。幌がついた荷台部 分にはベンチが作りつけられ、乗り合いタクシーになっている。これに乗り込んで町 の様々な場所に行くのだが、道路には信号というものが存在しない。どのような大き な交差点でも、信号が見当たらない。「左方優先」などという原則もない。交差点に 近づくと、警笛を鳴らしつつ進入し、相手がいなければそのまま、相手がいればさら に警笛を鳴らしてお互いに注意しつつ行きたい方向に向かう。道路には、センターラ インも横断歩道も存在しない。交通標識というものがない。そういえば、ガードレー ルなどというものも見なかった。規則としてあるのは、おおまかな「右側交通」ぐら いである。歩行者も、歩きたいところを歩き、渡りたいところを渡る。危なければす ぐクラクションが鳴り響く。だから街は一日中、クラクションの音が鳴り響いてい る。さすがに空港があるような大都会の入り口には、「警笛禁止」の看板がかかって いる。朝も宿舎で目が覚めるのは、南国の賑やかな鳥のさえずりとクラクションの音 である。信号がないから、基本的には1時間走っても、2時間走ってもノンストップ である。東京のようにこんな裏道にまで、と驚くような場所にまでご丁寧にも信号が 設けられており、数十秒ごとに停止させられている社会とは、まるで異次元である。 それぞれの社会にはそれぞれの経緯を経て形成されてきた様々な規則(ルール)があ る。それに従うことで私たちの日々の生活は維持されている。2000年前のユダヤ社会 にも様々なそれこそ無数とも言える社会的な規則があった。その中には、今の価値観 からすれば、何の意味があるのかと思えるような荒唐無稽なものも沢山あった。それ は、2000年前のユダヤ社会だけではない。60年ほど前の日本社会だって、教育勅語奉 読、宮城遥拝、御真影最敬礼などが国民儀礼として強制されていたのだ。そして現在 だって、不起立だけで即処分である。

 そうした2000年前のユダヤ社会において、安息日規定は数ある規則の中でも最重要規 定であった。それを弟子たちは堂々と破ってしまったのだ。いくらイエスの弟子とは いえ、いきなり当時の最重要規定を踏みにじる行為に至ったとは到底思えない。発覚 すれば、それこそ村八分、通常の社会生活からの追放は必至である。子供の時分から 安息日規定を守るように厳しく躾けられ、違反者たちがいかに悲惨な生活を送るよう になるのか身近に見聞していたに違いない。そうした弟子たちが二度と引き返すこと ができないというそれなりの覚悟をもってあえてそうした違反行為に至る前段には、 彼らの師が身をもって示された安息日における癒し行為、律法学者や町の有力者では なく徴税人や罪人たちといった人々との交わりがあったわけである。こうした事柄を 通じて、最初は古い慣習や価値観に囚われていた弟子たちも、旧来の因習を墨守する ことでそれなりに保証される身の安全や日々の生活と、イエスが示された新たな教え に基づいて古い規則から解放されることで得られる心の安らぎや自由さを比較検討し たうえで、新たな一歩として「麦の穂を摘み始めた」(マルコ2:23)。

 次の信号をいかに通り抜けるかタイヤをきしらせながら走る高性能な乗用車。オレン ジ色のインジケーターが早くなくならないか横断歩道でいらいらして待っている会社 員たち。そうした風景を見ていると、どこか遠くから、あのクラクションと焼玉エン ジンの音がかき混ぜあって聞こえてくる。

(2007年07月01日 週報より)


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