分別さかり

 次から次に社会を揺り動かすような事件が起こり、また個人的にも様々な心を悩ます ような出来事のはざまに生きていて、いちいち何がいつ起こったなど記憶のかなたに 押し流されてしまいます。その中でも不思議と記憶に残る出来事があるものです。 1995年6月に乗客365人を乗せた、全日空機がハイジャックされた事件がありました。 その日羽田を発って、函館に向っていた全日空機が正午前に山形県上空で、53歳の管 理職銀行員によって乗っ取られたのでした。事件を起こした銀行員は、病気で療養中 で、職場を休職していたさなかでした。

 そも日本では、航空機がのっとられた事件といえば、ダッカ事件とこの出来事くらい しか思い出せないのです。事件の反響の大きさもさながら、私にはこの事件を伝えた ニュースキャスターの言葉が今でもこころに残っています。「分別がスーツを着てい るような50過ぎの銀行員がなぜこんな事件を起こしてしまったのでしょう・・・」当 時私も52歳。心を病んだことが、この人をして、事件をおこした主たる原因だとは思 えない。心を病んでも、暴力的な傾向を持つ人もあれば、とても心優しい人もいる。 それは病む、病まないの問題とは別のことではないだろうか。でも、そのキャスター が<分別>を口にしたことに、わたしはとても不思議な気がしたのです。

 「あなたは分別をわきまえた、思慮深い人ですか?」そう問われたら、人はどう答え るだろうか。人は他人のことなら「分別」をつけることはさほど難しくはないかもし れません。でも自分の問題となると、「分別」は簡単ではなくなります。<沖縄戦の 集団自決に軍の関与はなかった>として、歴史教科書から記述を削除させた教科書検 定について、沖縄では自民党議員も含めて、市町村議会に続いて、県議会において全 会一致で検定の撤回を求める意見書が可決されました。<検定内容>は沖縄の人々の 憤激を呼びました。それは事実とはちがった意見だったからです。そこに分別はな かったのです。しばらく前、バブル経済下で、金融機関がヤクザと手をくんで次々と 地上げをした一時期がありました。良心的な銀行員たちは随分悩んだことでしょう。 銀行を勤め上げた、わたしの同窓の友人F君は、あの時期は手が後ろに回りかねない ことに手を染めたことがあると、今になって述懐します。経済界も<分別をもって生 きたかどうか>疑問です。旧約聖書の知恵者ソロモンは「民を正しくさばき、善と悪 を判断する・・・聞き分ける心を」と、神に求めました。何でも求めるものを与えよ うとする神の声に、権力でも、財力でもなく、聞き分ける心を求めるとは、まことに 思慮深い分別に満ちた生き方です。しかし残念ながらこのソロモンの分別は、やがて 曇り、彼の心も、神から離れていきます。

 人の心はしばしば変動します。いったんこれと決めた生き方が、魔が射したように興 味がうすれ、いとも安く放棄され、それまで必死になって築いてきた生き方や人間関 係をないがしろにしてしまうことが、時に起こったりします。

 キリスト者といえど、どこかに罪の残滓をどこかに抱えこんで、生きているものにす ぎません。われわれはみな罪人(つみびと)に過ぎないのです。「分別がスーツを着 て歩いている」どころか、心の中に嵐をかかえて、人生を生きているに過ぎないのか もしれません。だからこそ、今日、せつなる祈りを言葉にし、また胸をうって悔い改 めと、信仰に生きられるように、神に目を上げて生きるのです。人間の問題がわれわ れ自身の経験や理性で片がつくものなら、すでに理想社会が実現していたでしょう。 信仰を生きることをやめない限り、人にはなお希望があります。

(2007年06月24日 週報より)


戻る