今週は信徒執筆です

「日曜礼拝で聖書を読むこと」

 水野清    

 私は、2年ぐらい前に小枝牧師から洗礼を頂いたのですが、自分のキリスト者とし ての貢献度を、学校の成績順位と同じように、神様から席次をつけてもらうとした ら、水野は日本のキリスト者のなかで何番目ぐらいに当たるのだろうか?

 小枝牧師は「日本のキリスト者は、日本の人口の約1パーセントと言われていま す」とおっしゃいます。日本の人口が1億2千万人として、日本のキリスト者は12 0万人ということになります。だとすると、水野のキリスト者としての成績順位は1 20万番目だと自覚してしまえばそれでこの話は終わってしまいます。でも、水野よ りも貢献度の低いキリスト者がいるに違いない!と思いたいではありませんか。たと えばこの1年間、一度も教会の日曜礼拝に行かないキリスト者や、この1年間、一度 だって主イエスキリスト様にお祈りをしたことのないキリスト者だっているかもわか らないし、この一年間、一円の献金もしていないキリスト者だっている筈です。そん なキリスト者たちよりは水野の方が少しはましだと思いたい。だから、水野のキリス ト者としての貢献度順位はせめて115万位ぐらいに当たるのではないだろうか、な んて考えること自体がキリスト者としての資格が無い、と、お叱りを受けそうな気が しないでもないのですが・・・・ま、いいか。

 洗礼を受けて暫くすると、小枝牧師から日曜礼拝の壇上で「聖書」を読むようにと いうご指示を頂きました。歌を唄えといわれれば即座にお断りするところですが、聖 書を読めといわれれば、お受けするしかない、というのは、私は日頃、声を出して本 を読むのが好きで、酔うと興に乗って手当たり次第に朗読をするという奇癖があるの です。「武蔵はバッと飛び上がった。その時、小次郎はもはや自分に勝ちがないこと を悟ったのであった!」なんて大声で朗読をしながらいつか寝込んでしまうのです。 ですから、よろこんで「聖書の朗読」をお受けしたのでした。ま、3、4回も読ませ ていただいた頃からでしたでしょうか、何か違和感のようなものを感じ始めたので す。

 1年半ほど前になりますか、日曜礼拝に聖書の朗読テープを販売にこられた方がい らっしゃいました。洗礼を受けて間もない水野は、さっそく再生機付きの「旧約聖 書・新約聖書」のCDのセットを買い求めました。私と妻は、その朗読テープを毎日 かけっぱなしにして、詩篇やイザヤ書などの朗読をききながら手仕事などをしていま した。朗読する男優の方、女優の方、それぞれ見事なまでに巧みな技で読み上げてい くのでした。

 ところが、何か違うのです。何故か、伝わってこないのです。朗読が上手過ぎるの でしょうか、型に嵌り過ぎるのでしょうか、なんとなく、いつともなく、私も妻も、 その、聖書のCDを聴かなくなり、今ではあの自慢だった筈のCDもどこかに姿を消 してしまったのです。このあいだ、探し物をしていたら、その再生機がいろんなもの を乗せる台になっていたではありませんか!こんなところに埋もれておるワイ、と 笑ってしまいました。

 由木キリスト教会での聖書の朗読は、いろいろな方が、いろいろな読み方をします。 おそろしく早口で、あっという間に読み終わる人もいれば、ゆっくり読む人、読み違 えや、ひっかかって読み直す人、それぞれが形にはまらずに素直に読んでいらっしゃ います。

 私は、そのことに気がつきました。そのことというのは、聖書の朗読についてで す。私は聖書を「朗読という技」の上で読んでいたのです。というより、そのように しか読めなかったのです。朗読というジャンルで聖書を読むことの虚しさを感じたの でした。形に嵌って読み上げていく「聖書」は、空回りするだけで人々の心に響いてい かないことを悟りました。それならば普通に読めばいいではないか、と、自らに反論 しました。しかし、もはや長年の奇癖が身についてしまって、聖書を読んでも、 「はっきり言っておく」が、武蔵はバッと飛び上がった!になってしまうのです。

 そういうことで理由は申し上げなかったのですが、小枝牧師に聖書を読むことを辞 退させて頂いたわけでございます。あと1年、朗読でなしに、普通に、素直に「聖書」 が読めるように平常心の勉強をして、また、日曜礼拝で聖書を読めるようになる日に 向かって精進いたしますので、よろしくお願いいたします。

(2007年06月03日 週報より)
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