壁を越える

 わたしは先週27日から29日の3日間、三鷹にある杏林大学病院に泊まりまし た。わたしが体調を崩したのではありません。孫のMちゃんの小さなあざの除去を娘 夫婦が決めて、彼女の病室に付き添うことになったからです。彼女はまだ4歳です。 一人で入院生活をすることは到底無理があります。母親のNは、1才と7ヶ月の二人 の幼児を家において、付き添うわけには行きません。Mに「だれと病院でお泊まりし たい?」と聞いたところ「教会のジジと一緒に病院に行きたい。」ということになっ たらしいのです。わたしは指名されたわけです!光栄なことです。わたしが4歳の幼 児だったとき、救急車で運び込まれるならともかく、自分の意思を問われた上の入院 は、到底承服できなかったでしょう。わたしは彼女の勇気と自立心に心動かされたの です。じつは、その手術は幼いこともあり、血管も細く、点滴のポートをつけること ですら容易ではないようなのです。手術は全身麻酔、2時間を越える手術ものでし た。代われる者なら、代わってあげたい、そんな気がしていました。やがて小さい ベッドに乗せられて中央手術室に移動します。そこからはわれわれ親族とは別れ別れ になります。手術着を着たドクターや看護士に囲まれたその段階で、パニックを起こ して、大泣きになってしまう子供が多いそうですが、彼女は、けなげに、手術が終わ るまで全く泣かなかったそうです。麻酔からさめ、われわれの顔を見て、涙が伝わっ てきましたが・・・。

 28日、手術をして、経過もよく手術後数時間ほどで完全に普通の彼女に戻りまし た。前夜も、その晩も、両親が帰ってから、病室でたくさんの、たくさんの本を読ん であげました。でも、その夜、なお恐怖感が残っているように感じました。夜中じゅ う、手をつないでいました。電気を消したとき、一瞬泣き出しました。それただ一度 だけで基本的には良く寝ました。昼間は楽しく遊んで、夜もよく寝てくれました。共 にいてほしいのは、両親のほうがよいに決まっています。それを耐えて、努力して喜 んで、楽しそうに過ごすことは、わたしには驚きだったのです。

 どんなに幼くても、人はそうして与えられた環境に、努力して、耐えて、喜んで生き ていく力があることにわたしは感動しました。人はそうして苦難や、痛みや、困難を 越えていく存在です。それは幼いとか、高齢だということとは無縁です。人にはいつ も乗り越えるべき課題があります。けれどその課題が乗り越えられないものと決め付 けてしまうとき、自分自身で他者との間に壁を築いていく場合もあるでしょう。ベル リンの壁もパレスチナ自治区とユダヤ人居住区を隔てる壁も、そうした心の壁に基づ く目に見える現実の壁という気がします。そこでは壁が、理解しあう心、立場を超え て連帯すべき人間的な心をすべて分断して、敵意や憎悪や無理解が無機質に立ちはだ かっていくのです。いかにそうした壁を壊して、それが越えるべき人間の課題とし て、受け止めなおされるべきなのか、求められています。

 隣り合う人、隣り合う国、隣り合う集団との間に、今年も多くの人々が無理解の壁を 築いた年でした。いかにこの心の壁を壊して、これを連帯への課題に変えていくの か。人間の知恵を勇気が求められます。とはいえキリスト教の最大のメッセージは< 和解と赦し>です。ここに壁を乗り越えさせる大きなヒントが示されているのではな いでしょうか。

(2006年12月31日 週報より)
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