「生かされて」(イマキュレー・イリバギサ著)を読んで

 先週、やっと手に入れて上記の本を読みました。1994年、中央アフリカのルワンダ で実際に起こった話です。100日で100万人のツチ人が殺されるという悲劇の渦中にい た当時の大学生の記録です。死と隣り合う恐怖の中で、かろうじて死をまぬかれた若 い女性の出来事です。幼いころからよく知っている隣人による突然の虐殺、凶行でし た。過去においてフツ人によるツチ人への虐殺事件が起こったことは知らないわけで はなかったのです。ただ、過去のことだし、子供の目から見ると、この上なく優しい 父、母、兄弟たちとともに、一家はきわめて平和で豊かな日常生活の中にいたので す。しかし彼女が大学生になって、突然の騒乱。大量虐殺は極秘裏に準備に準備を重 ねて行われたものでしたが、一般のツチ人にとって、それは到底理解のできない全く の寝耳に水の出来事でした。父、母、兄弟が捕らわれ、後になって、彼らが残酷に殺 害されたことを、彼女は知るのです。著者はカトリック信徒ですが、フツ人のプロテ スタントの牧師の家に何とか匿(かくま)われます。それも7人の女性と共に狭いト イレに、91日間。身を横たえるスペースもなく、立って重なり合うように3ヶ月を過 ごしたのです。彼らは牧師から厳命されます。「けっして音を出してはならない。あ なた方が隠れていることがフツ人に知られたら、わたしも殺される。」

 牧師館はツチ人を匿っているという疑いがかかり、何度も捜索されます。何百人も の殺人者たちが家を囲み、家中をくまなく捜索するのです。「殺せ。殺せ。皆殺しに しろ。大きいのも、小さいのも、みんな殺せ。年よりも若いのもみんな殺せ。赤ん坊 の蛇も、蛇は蛇。一人も逃すな。殺せ。殺せ。」そう怒鳴っているのは、彼女の知っ ていた近所の人々でした。一緒に育ち、一緒に学校に行った人々でした。かつて彼女 の家に夕食に来た人々もいました。やがてフランス軍の支援の下にツチ解放戦線によ る治安回復がなされ、虐殺にピリオドが打たれます。7人の女性たちは91日間のトイ レでの隠れ家生活から解放されます。後に母親と、兄を殺害した人が判明します。発 掘された兄の骨には肋骨しかありませんでした。顔も手も足も切り離され、虐待され て殺されたのでした。殺害者はフツの実業家だった人でした。背が高く、ハンサムで いつも高価なスーツに身をつつんだ紳士。牧師館で、<イマキュレーを見つけて、殺 せ。>と叫んでいた人も、ほかならぬその人でした。

 虐殺がやんで、彼は留置場に収監されます。イマキュレーは留置場に彼を訪ね、彼 の手を軽く触れて「あなたを許します。」と言うのです、彼女はそう書いています。 虐殺には、虐殺。殺しには殺し、という応報的復讐は確かに分かりやすいとは思いま す。しかし、それでは犠牲になった人の心は癒されはしない、と彼女は言います。そ のように許しを宣言できたのは、彼女のうちに脈々と生きていたキリスト教信仰の故 です。この本を読んでいると、フツ人の虐殺者の中に多くのキリスト者のいたことが わかります。かつての宗主国であるベルギー人が植民地経営の便宜として創出された 民族の対立。時の流れと共に先鋭化し、ついにここまでの大量虐殺が引き起こされた のでした。

 この本はアフリカ現代史の出来事ではなく、家族を虐殺されたこの女性の信仰の物 語です。赦す心こそ、イエスの心を心とすることこそ、殺害者はもちろん、被害者そ のものを思いをも、変えていくと、この女性は語ります。キリスト教信仰はそこまで 深く人の心を変革する力を持っていることを教えられます。しかし、同時に憎悪に基 づいた民族浄化作戦にやすやすとのせられ、おぞましい虐殺に関わった宗教上はキリ スト教徒も多くいたのです。キリスト者がなんらか、心のうちに憎悪を抱えて日々を 過ごしているのであれば、それはキリスト者といえるのだろうかと反省させられま す。主イエスは供え物を捧げる前に、まず和解しなさいと命じられました。赦しあう こと。和解することこそ、キリスト教の最大の奇跡、賜物です。そこに福音を生きる キリスト教の宝があります。

(2006年12月17日 週報より)
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