満ち足りた心をもって

 あしたは今日よりも幸せになれるだろうか。われわれはばくぜんとそんな願いを心 に抱いて毎日を過ごします。その一方で、新聞やテレビのニュースを見ていると、毎 日のように次から次へと殺人事件が頻発します。殺人事件では、手をくだしたほうが 悪いに決まっていますが、様々なケースの中ではやむにやまれぬ状況のなかで、結 局、殺人事件に発展してしまった事例もあります。先週は84歳の女性が80歳の夫を刺 し殺したと言う事件が伝えられました。新聞記事によればこの女性は結婚して50年の 間、夫の暴力にさらされ続けたのだそうです。年老いて一転して、84歳の妻が80歳の 夫を老々介護する立場になり、疲れ果てて、もろもろの感情が事件につながったよう です。

 一人の人が犯罪に立ち至るのに、心の中では犯罪への戸惑いや踏み込みなど、複雑 な過程をたどるのでしょう。しかし人生の旅程の中で受けた心の傷や、人間関係の中 で受けた痛手に、社会や特定の人への恨みや憎悪が、当然の復讐の理由として正当化 されるのです。社会では犯罪者は凶悪な人間と言うレッテルを貼ります。しかし<善 意な一般人>と<凶悪な犯罪者>との間は意外に近いのではないかとも思えます。ふ しぎに人はこの間の距離を一足飛びに飛び越える心の闇を持っているのかもしれない と、わたしには思えます裁判官、警察官、教師である人々も、犯罪に手を染めること ができるし、その逆に、悪に染まりきったように見える人も見事に更正できるので す。

 旧約聖書に登場するダビデ王が、自ら罪を犯したときに悔い改めの詩篇を書きまし た。よこしまな人妻への愛が、結局夫殺しに発展したのです。世界中、日本中で、形 を変えてこうした事件はありふれているでしょう。なぜダビデ王はそうしたおろかな 罪を犯したのだろうか?彼が権力者だったからか? 本来自制心の欠けた性格だった からか? いろいろ思い当たるフシはあったかもしれませんが、ダビデがあげたのは 要するに、彼が人間だったからです。人間の心には正義感も生きていますが、同時に 犯罪に傾斜する心もありうるのです。人間は罪人(つみびと)だ、と聖書は言いま す。この罪の心から完璧に自由な人はだれもいないのだといいます。この生の危うさ について自分に言い聞かせることは、やはり大切です。

 信仰に生きることは自分の心を見つめることでもあります。自分自身の心を見つめ るからこそ、他人の心も大切にします。ふつう人は自分の心を見つめようとはしませ ん。何かあると、ことの責任を他人にかぶせようとします。アダムが罪を犯したと き、妻のエバのせいにしました。「神様、あなたがわたしに与えた女がもってきたの です。」この卑劣な逃げ口上。責任転嫁は原罪のしるしです。人の心がそれだけだと したら、人は到底他者と共存などできない存在です。この弱さや卑劣さを留める人間 の心を、神はその住まいとしてくださいます。死を前にした瀕死の病人であるかた が、近づく死を堂々と、静かに受け入れていく様を、わたしは何人も見送りました。 神を宿す人には不思議な平安と気高さがあります。これこそ信仰者の魂の方程式とで も表現できるものです。キリスト教信仰は言葉の表現も大切ですが、何よりも生き方 や、足跡で残される必要があります。神様がご覧になるのは、何よりもわれわれがど う生きたか、なのです。

 信仰心は、なによりも満ち足りたこころを与えるものです。豪邸にすまなくても、 さして財を成さなくても、信仰の心さえあれば人は満ち足りた思いを持つことができ ます。そうした人々とともに歩むところに、今日、ほのぼのとした幸せを分かち合う ことができるのです。

(2006年08月20日 週報より)
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