<愛は、(すべてを)信じ、(すべてを)望み、(すべてに)耐える。>

(コリント1  13:7)   

 今の日本の社会はどうなったのだろうと思うほど、心すさむ出来事があちこちで頻発します。一連の心寒くなるような出来事は、社会の片隅の、偶発的な、例外的な出来事かといえば、必ずしもそう言いきる事が出来ない、どこかでわれわれの日常につながっている出来事かもしれないという不安があります。家庭や、地域でお互いを思いやる連帯感は薄まる一方でしょうし、可愛い盛りの3歳から4歳のお子さんを人前で面罵したり、殴ったりする母親をときおりスーパーや路上で見ることがあります。知的で、良心的なお母さんが、じつは自分の子供を愛することが出来ないと、洩らすこともあります。ストレスの多い、人間関係が薄れていく時代に、以前とは違った悩みを心ひそかに悩む人は少なくありません。

 自宅に放火して、家族3人を死なせてしまった医学部志望の高校生が、人生をリセットしたかった、と伝えられました。こうした思いを持つ人は例外的でしょうか。たぶん人生をリセットできるものならそうしたい、と思っている人々は少なくないように思います。世論調査をして、その実数を調べたら膨大な数字が上るのではないでしょうか。カルト宗教がターゲットにねらうのも、そうした人々です。「ここに入信すれば、一挙に世界が変わります。」 「この教祖を信じれば、あなたはまったく違う、新しいあなたになれます。」 ワラをもつかむような思いで、大金を投じてでも、人々は夢に賭けます。でも、人は生まれながらの人であって、そんなに簡単に変われるはずはありません。私たちの、牛の歩みのような、一歩、一歩。かわりばえのしない家族と歩む一年、一年の歩みは、とうといものだと思います。その歩みがあって今があり、明日があります。リセットなどする必要もないのです。

 「なぜキリスト教を信じる意味があるの?」とたずねられたときに、私は、「自己肯定につながるから。」と時折答えます。福音は<あるがままの自分を喜んでくださる神を知ること>です。そこから自分自身が、自分の生涯を受け入れることが始まります。自分自身を受け入れられない人は他人を否定し、排除するのです。冒頭の言葉はよく結婚式で読まれる聖書の箇所です。これはかの有名な使徒パウロの言葉です。彼の過去は知られるようにキリスト教の迫害者でした。今ふうに言えばユダヤ教原理主義者で、男、女、子供の区別なくキリスト者と見れば、捕縛し、投獄し、時には殺害しました。ほんものの宗教は、信仰の自由を重んじるところにあります。信じる自由、強要されない自由は確かでなければなりません。パウロは極端な原理主義のさなかにあったとき、迫害者としてダマスカスに乗り込んで行く馬上で、キリストに捕らえられたと自ら語ります。そして、やがて迫害者から、最大の宣教者、神学者となり、いくつもの新約聖書の書簡の著者となりました。

 現代の神学校だったら、パウロを受け入れたでしょうか。昨年まで狂信的なイスラム原理主義の危険なテロリストだった人を、自ら申告するキリスト教信仰を、そのまま信じ、受け入れて、教会に迎え入れるでしょうか。ひとつにはわれわれ人間でしかないものは、人の心の奥底まで見通すことが出来ないのです。新しくなったといわれても、半信半疑で迎えるのがせいぜいです。しかし神は違います。ほんとうに心入れ替えて再出発する人に、過去は問いません。途方もない忍耐と、愛を注ぎつくすのです。

 それほどの信頼と希望と、忍耐を、神は私たちに注ぎ、かつ神のありったけの力で私たちを救うのです。そこに新しい私たちの明日が開くのです。昨日まで苦しんだことも意味があるのです。私たちは自分で人生をリセットすることはかないませんが、新しい自分はキリストと共であるなら確実に開くのです。それでも、キリストのもとに来ないのですか?

(2006年06月25日 週報より)
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