今週は信徒執筆です

感動するという事

大澤 信之  

 毎年、卒業・入学の季節は桜の花が一面に咲き誇り、時と共に風に舞い、美しいと心から感じます。

 最近、卒業式に参加する機会を得て、よく企画されていると感心しました。卒業式など出ないことが「カッコいい」と考えられていた私の時代と違って、生徒たちは、自分たちの卒業式を大切にしているように見えました。
自分たちの過ごした時間や、成し遂げた事柄を思い出して涙する生徒たちの多いことは予想外でした。実に様々な格好をして自分を主張している生徒たちを見て、さめた反応を予想していた私は、自分たちが過ごしてきた時間を、大切な思い出としている姿に、深く感動しました。そこには、うわべの服装や格好とは別のところにある、飾らない輝きがありました。

 先日、「こども礼拝」のスタッフと礼拝に参加している子どもたちが一緒になって、「マシュマロ&チョコフォンデュー・パーティ」を、開催しました。聞いただけでもおいしそうなパーティ名ですが、ホットプレートで暖めた鍋にチョコレートを入れ、この融けたチョコレートに串刺しマシュマロを浸けて食べるわけですから、参加してくれた子どもたちは、真剣そのものです。椅子にじっと座っているのは、高学年以上の子たちで、それ以外の子は、「机の上の鍋」近くの「机の上」に座り、自分で串刺しマシュマロをチョコレートに浸しては食べるといった光景です。最初は真剣、次第に喜びの表現を浮かべます(教会ホールに、この模様を写した写真がありますのでご覧頂けます)。この表情は、私の想像ですが、どんなに頑固で頑なな人の心も、フォンデューのチョコレートのように溶かしてしまいます。すべての人に共通した喜びと感動の原型なのだと思いました。

 マルコ福音書には、イエス様が小さな子どもを引き合いに、天国の譬えを語られる場面が描かれています(マルコ9:33-37、10:13-16)。福音書という方法をいわば発明したマルコは、弟子たち特に初代教会の中心的な存在であった使徒の権威主義的なあり方に、強く反対していたのではないかとさえ思われます。「誰が一番偉いのか」「右大臣、左大臣の権力が欲しい」として、イエス様を理解できない、受け入れられない使徒と、子どものあり方が天国の譬えであるとして、子どもを受け入れるイエス様の対比を鮮明に語ります。使徒は、イエス様の「キリストの有り様(十字架の受難と復活)」が受け入れられず、「キリストはこうあるべきだ」として「キリストの鋳型」をイエス様に押し付けようとします(8:32-33)。

 「子どものように神の国を受け入れる人」は、理想の鋳型を人に強要するのではなく、イエス様を受け入れ、小さなことに感動することが出来ます。明日の苦しみや悩みで今を辛くするのではなく、今の喜びを大切に出来るのです。無責任な楽天主義のようですが、不十分な自分に心配するのではなく、真剣に喜んで神様を信頼するのです。

(2006年04月09日 週報より)
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