<神に出会って>

 エジプトの宮廷で、王子の一人として育てられたモーセは、やがて、王宮の外には、数えきれない多くの人々が、奴隷として追い使われている現実にショックを受けました。そして自分自身も本来はその人々と血縁のつながりのあることを知ります。40才になったある日、モーセは奴隷の一人が、エジプト人の監督から、ひどく殴られいるのを目撃します。まわりに誰もいないのを確認してモーセは、そのエジプト人監督を撲殺します。モーセは感情にかられていたのか、冷静だったのか、不明です。人間が犯罪にかられる時は、冷静でありながら、自分自身を失っているという状態なのでしょうか。翌日、前夜モーセが助けた人が、別の人間と争っていました。モーセは仲裁に入りました。ところがモーセに助けられたその人が、前夜の殺人を密告するのです。簡単に人を殺してしまうモーセも問題ですが、それほどのリスクを負って自分を助けてくれた人間を、敵方に密告する人間はもっと問題です。それは奴隷として今日を生きる、ひとつのすべであったかも知れません。他人のことなんか構っちゃいられない。自分を助けてくれた人間であろうがあるまいが、わずかでも自分にメリットのあることなら徹底して自分のために生きる。精神まで奴隷に身をおとして生きて行く人のありようがそこに現れます。

 犯罪者のレッテルを張られたモーセは王宮から隔絶した荒れ野であるホレブまで遁走します。やがて40年。エジプトの王子の一人という身分から、羊飼いとしてそこで人生を終えようとしていました。どのような人生を選ぼうと、自分自身の自由な決断に基づくなら、それは一つの選択です。しかし、それが、おそらくは状況に流されて、つい犯してしまった殺人の結果であったとすると、大変な悔いが残ることでしょう。同情にかられて、やがては自分を裏切る人間を救うために、エジプト人を殺してしまった。「なぜあんなことを?」モーセは40年間悔い続けながら、むなしく老いていったことです。

 しかし突然<燃える柴>の中に神が現れたのでした。乾燥し切って、暑い砂漠の陽射しに焼かくれる柴は、火がつくとたちまち燃え尽きるものです。ところがモーセが見た柴は火がついてもいつまでも燃え続けるのです。40年間、自分の過去のたった一つの過ちのゆえに、人生を転んでしまい、二度と立ち上がれなくなってしまったモーセの前に、神が現れます。決して誇ることの出来ない人間だからこそ、人間の弱さを深く知るからこそ、苦しみ、悩み、心のそこまで奴隷になってしまった人々を、エジプトから脱出させるこの大業に、モーセは立てられたのです。

 しかし、ここでモーセを導きだす神の方法は、興味深いのです。

「主は言われた。『わたしはエジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は下っていき、エジプト人の手から彼らを救い出す。・・・今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
(出エジプト3:7、8、10)

神の救いは個人的、内面的なものと、しばしば私たちは考えています。しかし、神様はモーセの過去の罪について何も指摘しません。むしろ神の救いは社会的であり、他者的です。個人的、内面的な悔い改めと救いは、40年の歩みの中でモーセは解決していたのかも知れません。ですからここでは、社会的、他者的なのです。神の救いは非常にダイナミックなのです。内面的であると同時に、他者的なのです。個人的な救いであると同時に、社会的な広がりを持ちます。矛盾を含みながら、いずれの方向性も必要なのです。人間はいずれは一方に偏りがちなのです。教会派か、社会派か。個人の内面だけを問題にする人々か、そうでないのか。モーセの召命を通してあらためて、複眼的な神の救いのあり方を教えられます。

(2005年10月23日 週報より)
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