今週は信徒執筆です

「教会学校(子ども礼拝)」

                        大澤信之

毎日の生活で、同じ事の繰り返しのように思えることがあります。
しかし、生活を重ねてゆくということは、断じて同じ日々の繰り返しではないことも確かです。少し前の自分の写真を見ると、その確かさに驚かされることがあります。

私が、教会学校に関わらせて頂いて、およそ25年が経ちます。その間、子どもたちといっしょに聖書を開き、祈り、御言葉に接してきたことになります。時の経つのは早いものだと、他人事のように思えます。

なんでもないように見える、毎日曜日の子どもたちとの関わりが、自分の教会生活はもちろんのこと、日常の生活でも、どれほど大きく大切なものになっているのか、その大きさや重さを実感する時があります。

長男の幼稚園の先生が、以前由木教会の教会学校でイースター・エッグハンティングをした記憶があると聞いた時は、びっくりしました。以前の教会学校の生徒が、今では立派な大人になって、自分の子どもを連れて「子ども礼拝」に来られると、なんとも嬉しいものです。

以前教会学校に来ていた生徒が、つい先日25歳という若さで亡くなったと、黎子先生から教えて頂いたときは、大変なショックでした。言いようのない想いが、胸の中に湧き上がってきました。かわいい、やんちゃな子どもの時の姿が、鮮明に思い浮かびます。当時は、教会の車で送迎をしていましたが、朝迎えに行くと、心配そうな顔をして待っていて、顔がわかると安心したようにニッコリする様子がまるで、ついこのあいだのようです。

「うちのパパは会社の偉い人で、新聞に載ったんだよ」と自慢していたご両親の悲しみを思うと、神様に慰めを、心からお願いする事しか出来ません。

毎日の、同じように思える日々の生活の中で、しかし、したたかに「時」は、気付かないように、何かを確実に変えてゆきます。しばらくして人は、変わってしまった「こと」や「もの」を悟ることになります。

何を大切にしてゆけるのか、自分の信念としてゆけるのかを問いかけることがあります。そんな時、自分の生活の、その根っこのところに、聖書があり、イエス・キリストがあり、教会での交わりがあり、そして教会学校(子ども礼拝)での、子どもたちとの交わりがあることを、見つけるのです。

(2005年04月10日 週報より)
戻る