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牧師 

小枝 功 

(こえだ いさお)reiko-photo

副牧師

小枝 黎子

(こえだ れいこ)
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2021年12月26日 礼拝メッセージ

東に上がった星 マタイによる福音書 2:1-12

神の民が待ち望んでいた救い主の誕生は、 特別なクリスマスの星によって伝えられました。 しかしその救い主誕生を知らせる星は、直接ユダヤの人々の上には輝きませんでした。 神様がその誕生を知らせようとして選んだ人は、 東の(この東は太文字で、アンダーラインがつけられます) 東の占星術の学者達に告げられたのです。 この占星術の学者達が、どのようにそれだ、救い主の誕生を知らせる星と知ったかは、 学者達のことを伝えるマタイ福音書に述べられていません。 ですから分らないのです。 <東のほう> と書かれています。 たぶんペルシャ―つまり今で言えばイランのほうではないかといわれます。 ペルシャなら、ペルシャと書けばよい。 でも聖書―がいうのは <東の方> なのです。何か随分曖昧な、いい加減な言い方です。

かつて米ソ対立が拮抗していた時代、 <東> といえば一つのイメージが浮かんできたものです。 共産主義独裁、秘密警察に支配されて、人々の自由が抹殺されている国々。 それは実態なのか、そうではないかが検討されることもなく、 自由な社会という国々でも、与えられる情報は結構偏って、 マッカーシー旋風が吹き荒れるという、 自由な社会とはかけ離れた実態があるにもかかわらず、 <東> というだけで一つのイメージがありました。

聖書のいう <東> も一つのイメージが表わされています。 つまり東はさまざまな問題を抱えている場所として描かれているのです。 <エデンの東> といえば、あのジェームズ・ディーンの映画と受け止められますが、 それは聖書に基づきます。聖書の最初の登場人物アダムとエヴァが罪を犯して、 エデンの園から追放されて、彼らが住むことを許されたのが <エデンの東> です。これが分って、きっとその映画の理解はいっそう深まるでしょう。 ついでに言えばこの映画を作ったエリヤカザンは、マッカシー委員会に呼び出され、 尋問され、問題にある人々11人の名前を公表し、 マッカーシーに妥協した人物として長年にわたって、 今に至るまで、人々から批判され続けているのです。 まさに東の中にある人物となったのです。 アダムとエヴァが追放されたエデンの東とは、神からの追放の場所であったのです。

このエデンの東の家で、アダムとエヴァは、 二人の子どもを儲けます。 けれどそこで起こったことは兄カインによる、弟アベルの殺人でした。 人類最初の兄が、人類最初の弟を殺すという事件です。 そのカインについて、聖書はこう記します。

創世記4:16  「カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ。」 神からの逃亡の地が東の方でした。 また創世記11章には  「東のほうから移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、 そこに住み着いた。」 そこで、その人々がしたことは、バベルの塔を作って、天に届く塔、 天よりも高い塔を作って神を越えようとしたのです。 その結果人々の言葉が乱れて、人々は言葉と言葉が通じ合わなくなった。 コミュニケートできなくなったのです。 今は同じ日本語を話していても、心は通じなくなって、親が悪い、 社会が悪いといって、無差別殺人が起こる時代が現れています。

あげれば他にもいくつもの <東> が聖書には記されています。 <東> は聖書では、神から追放されたものの住むところ、 神から逃げ出したところ、神から遠くはなれ、 神と敵対するものの地と位置づけることができます。 そして何よりも、聖書の民ーイスラエルをもっとも苦しめたアッシリヤ、 バビロニヤはイスラエルの東に興った、 イスラエルにとって忘れようとも忘れることのできない苦しみを味あわせた東の国でした。 神の祝福とは正反対の苦しみ、躓き、敵意に直面する場所、 それが <東> だったのです。

ところがクリスマスの星は、まずその <東> で輝き始めたのです。 その東にいた人が、誰よりも先に、この星を見出したのです。 旧約聖書からすれば、神は、 神に見捨てられた場所に住んでいた人に希望の知らせを伝えたのでした。 しかも占星術の学者というユダヤ的、 聖書的伝統とはかけ離れた人を選んで希望の知らせを告げさせたのです。 お生まれになったのはユダヤ人の王、世界の救い主でした。 しかしこの方を最初に礼拝したのは、ユダヤ、エルサレムの人々ではなく、 はるかに遠い異邦の東の占星術の学者でした。 そこにはイエスキリストが単にユダヤ人の救い主にとどまらない世界の民のための救い主。 主イエスによって狭い民族性や、国境や、 国籍を越えて世界の人々がつなげられる世界性へのメッセージがあります。

イエスが誕生する際、インマヌエル―つまり神はわれわれと共におられる、 と天使が語り(マタイ 1:23)、 イエスが十字架と復活を経て、弟子達と別れようとしたとき、最後に、 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイ28:20)といわれました。 イエスキリストがやがて生まれんとするときに天使が告げた言葉。 そして主イエスが地上での一切の働きを終えて語られた言葉は同じ言葉です。 主イエスはすべての人々にとっての救い主です。 主を求める人には一人の例外もなく、イエスの救いが実現するのです。

聖書における <東> の持つ意味を覚えましたが、わたしたち日本は <極東> FarEast等といわれたりします。 地理的にもですが、聖書的な意味あいにおいても、私たち自身が 「東」にあるものですし、わたしたちのこころの中にも、 「東」の部分を発見したりするのではないでしょうか。 わたしたちは神を求めていますが、 同時に神から離れてしまっている部分があります。 時に神とは無縁の存在になっているような自分、 神と敵対するような思いになる自分がいることもあります。

人の心の中には、思い煩いがあり、悲しみがあり、 醜さがあり、エゴがあります。 無論透徹した澄み切った信仰があれば、 そうした異質な感情が入り込む余地はないのでしょうが、 そうさせまいとする制御不能な自己中心の自分がいます。 つまりやはりわたしたちはこころの中に東を持っているのです。 神なき領域を持っているのです。 本当はここでこそ、今こそ、誰よりも神を必要としているのです。 けれど、それを直視したくないのです。 まともに見ようとしたくないのです。 真剣に神に頼ろうとはしないのです。

だからこそ、そうした東にいるわたしたちに、 神は、主の誕生を届けようと、必死になられるのです。 イエスキリストは世界の救い主です。 しかし何よりも、わたしの、あなたの救い主なのです。 クリスマスこそ、神の、われわれ自身への招きが発せられているのです。 あなたへの招きが発せられているのですから、それを発見して、 応答すべきなのです。

東の占星術の学者は、立ち上がりました。 荷物を整理して、旅の装束に着替えて、プレゼントを持って、 エルサレムを経由してベツレヘムに向かい、 ついに救い主キリストに出会いました。 当時のユダヤ王ヘロデは、学者達の訪問を受け、救い主の誕生を知りましたが、 ベツレヘムには行きもしませんでした。 ただ不安が残りました。 そして行ったことはベツレヘムと近郊の2歳以下の幼児達の皆殺しでした。 ヘロデがそこで自分自身の生き方を新たにして、 悔い改めてベツレヘムの家畜小屋に行っていたら、歴史は大きく変わったでしょう。 ベツレヘムまで歩いた人といかなかった人との間には、 何でと思われるほどの大きな人生の違いがあります。

思えば人生とは歩くことです。 延々と走り続けることは人間にはできませんが、 人はどこまでも歩いていくことができます。 人生とは時間をかけて、人間性を築き上げる徒歩のたびです。 歩き続け、築き上げ、蓄えていく歩みの中で、 その人らしい歩みが、明確な足跡を残して生きます。

歩けば時に躓くことがあります。 人生自分の都合のいいことばかり起こると思ったら、とんでもない間違いです。 パウロの言葉です。 2コリント11:23−29

わたしたちだって信仰を貫いて生きて、 労苦や困難や悲しみがしばしばあります。 苦しみながらこの一年を歩んだといっても、少しも言い過ぎではありません。 でもキリストに向かって歩んだからこそ、歩いたものにしか分らない、 喜びもあります。 苦しさを忘れるほどの感謝があります。 それゆえにこそ来年への望があるのです。

主イエスも、パウロも、 地上で何か多くのものを所有された方ではありませんでした。 身につけた才能や、この世のもので、人々をひきつけたのはありませんでした。 この世の栄光は何一つなかった。 ただ神の慰めを人々に与え続けたのでした。 その人にとっての最大の問題を指し示し、悔い改めに導き、生まれ変わらせ、 人々は希望を新たに見出して、人生を行き始めたのです。 イエスキリストは、そうして、わたしたちの世界にお出でになったのです。

私たち自身がエデンの東という暗闇にいるのだとしたら、 主イエスの新たに光をいただきましょう。 主イエスをお迎えしましょう。それでこそクリスマスです。

(2021年12月26日 礼拝メッセージ)


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update: 2021.12.27.